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Nakamura

20 febrero

しぜんとこうなった。

 ベッドと椅子です。横から眺めるとぴったりと一致します。しぜんとこうなりました。
 
 ベッドに寄り添う椅子の情景をご想像ください。特別なことではありません。きわめてよくある日常のシーン。調和を生み出すのです。眼をこらします。
 
 バットとラケットに利用されている素材。丈夫でしなやかな木材です。北陸地方で「たわむ」ところからきたという説があります。はるか昔から木であったことがうかがわれます。時がたっても端正な味わいと安心感があります。探していくうちにたどり着きました。
 
 主張がありません。単調に見えるかもしれません。そこには、積み重ねがあります。知恵のあり方を、かつては呼んだこともありました。ここに本質があると考えています。
 
 世界で高い評価をいただくようになりました。五つの金賞を受賞しました。シュレッダーがその対象でした。大きな勇気をいただくことができました。私たちははっきりと呼び、連携いたします。
 
 背景は気分ではありません。老いもターゲットにはしません。意識を尖らせることもありません。基本は興味です。働き、憩う人々への興味です。作り、楽しみ、食べ、眠り、旅をし、涙に包まれる人々。幸福になるためのお手伝いを、続けていくことが役割です。論理よりも論理がまさっている点がオリジナリティです。
 
 重点を置きます。ひとつずつご紹介していく予定です。家具をはじめ、「ライト」など、「なるほど」とご理解いただきたいと考えています。
 
 観察したら・・・しぜんとこうなりました。
 
 
 
 
 
 この文章を読んで、皆さんは何を思うのだろうか?僕が奇を衒った作品でも書いたと思う人もいるだろう。何か怪しげな宗教の勧誘文句だと思う人もいるかもしれない。しかしどちらも正しくはない。
 
 僕がこの文章を始めて見た時は、なかなかにシュールレアリスム的で美しいと思った。しかしこれはリアルな世界のどこにでもある文章なのである。ただそれが様々な印によって見えづらくなっているだけのことだ。
 
 
 とっくにこの文章の正体に気づいている人はいるかもしれないが、この文章は広告である。ただ、僕が黒いマジックを使って細工をしてはいるが。2月17日の新聞に無印良品の全面広告があり、長い広告文が載っていたのだ。新聞の見出し特有の“何が、どうした”という文法に書き換えたらどうなるのかと思いマジックを取り出し、修飾語を消していった結果が上の文である。
 
 この作業は広告の過剰な印を取り除く作業にほかならない。この饒舌な印こそが、無印良品の価値の半分くらいを支えているといえるだろう。上の文章を読んで、誰が無印良品の商品を買いに走るだろうか?現代はイメージ生産の時代であるから、物質ではなくイメージを生産・消費する時代である。イメージとはすなわち広告の写真であり、文といった印である。
 
 こういうイメージ理論は目新しくもなんともない。しかし“無印”を標榜するこの会社の広告が“印だらけ”だったということを発見したことについては意味があるような気がする。こういうカラクリが山ほど我々の無意識に入り込んでいることを再発見した。誤解がないように言っておきたいが、僕は無印良品が大好きだし、広告が悪いと言いたいわけでもない。ただ、そういう時代だということを知りたかったのである。
 
 先日sss一氏と話をしているとき、彼が某企業で“インパクトに残った広告は?”と聞かれたという。彼が僕に、“インパクトに残らないから広告なんだろう”という趣旨のことを言ったが、それは正しい。
 
 
 
 この既存のテクストをマジックで新しいものを作るのは、きっと昔から誰かがやっていただろう。僕オリジナルのアイデアではないが、面白かったので今後も続けていきたい。
29 noviembre

特権としての文化検討

 お久しぶりで申し訳ないのですが、今酔っ払ってます。最近は韓国の生活を存分に楽しんでおります。先学期は僕自身の弱さから情けないことばかり書いていたのですが、最近は肯定的なことを書けるように思いますので、書いてみようと思います。
 
 というわけで、今日のテーマは多文化理解に対する考察だ。“文化の違い”という言葉は非常に美しく聞こえる。しかしながら、あまりにきれいな言葉が故にきれいごとのようで反吐が出そうと感じる人もおられるかもしれない。今日は反吐を出す前にもう少し一所懸命考えてみようではないか。
 
 韓国という国は日本にとって難しいだろう。日本は韓国の影響を歴史的に受けなかったし、韓国製品はどこか胡散臭い感じがする。そうでありながら、韓国には強い反日感情があり、日本には韓流ブームがある。竹島問題以降は日本でも反韓気運があるようだ。このように見ると、僕が韓国で辿った道筋と非常に似ている。
 
 便宜的にではあるが、日本に於ける韓国観を4つに分けてみたい。まずはマジョリティから。
 
 ①日本で一番多いのは、韓国に対して無関心な人であろう。日本は韓国からの影響がほぼなかったし、日本では韓国のように愛国心が強くない。これは韓国についてあまり知らないから、当然とも言える選択であろう。モロッコに対して、悪い感情もいい感情も持ってないのに等しい。これは韓国から住んでる僕にとっては非常に平和的に映る。
 
 ②次に多いのが、韓国を無条件に好きな人である。韓流ブームのおばちゃんたちが当てはまるであろう。日本人が考えているような反日感情は存在しなく、韓国の男性/女性は日本人の男性/女性より、気配りが細かく人間的だと考える向きがある。それ故に日本を卑下する傾向があるようだ。これは非論理的であり、日本を卑下するにもやはり日本が必要なのである。日本への生活に不満がある人なのだろうか。
 
 ③このグループは少数な気がするが、韓国を無条件に嫌いな人がいるようである。小泉政権発足、日韓ワールドカップ共催以降、多くなってきたようだ。このグループの人たちは熱心に歴史考証をする。その結果、韓国政府の無茶苦茶さを知る。それ故に韓国を卑下する傾向があるようだ。これは論理的であるのだが、韓国の“日本だからとりあえず嫌っとけ”というのと同じ論理になり得る。そうなると反論の根拠を失っていると言えるだろう。論理的であれ、韓国を卑下するためには結局は韓国が必要なのである。①のグループのように、日本にいながら無関心でいられないのは、やはり②のように日本への生活に不満がある人なのだろうか。
 
 ④このグループは本当に特殊だといえる。このグループは韓国語を話せる人のグループだ。韓国に一定期間いて、或る程度韓国語も理解し、韓国人の思考方式もある程度わかっているグループだ。このグループは恐らく条件なしには韓国を好きとも嫌いとも言わない。
 
 
 僕は韓国に住んで、①~④の順序を踏んできた。最初僕は韓国に対して無関心であった。むしろ胡散臭い匂いのする国であると思っていた。そして、数年前に旅行で韓国に行った。その時、韓国人は情に厚い人間的な民族であると感じ、韓国は無条件に好きになった。そして韓国に来た。韓国に来たときは、竹島問題たけなわで、韓国人の論理の無茶苦茶さにあきれ、韓国人の一挙手一投足を嫌いになった。
 
 そして最近、僕は④のグループに入れたような気がする。言葉も日常会話や政治の話をするには足りるようになったし、毎日韓国人と遊んだ。すると、韓国人の思考方式を徐々に理解できるようになるのだ。勿論韓国に住んでいる以上、日本に対する偏見は避けられない。しかしそれも、韓国の政治状況や教育を考えてみれば、韓国にも必要なことかもしれないと考える余裕ができた。勿論変わらなくてはならないだろう。しかし、今の韓国にはそうでしか生きていけないという考え方をできるようになったのだ。
 
 ②のグループが考えるように、韓国は天国のような国では決してないし、③のグループが考えるように韓国は地獄のような国では決してない。今の僕の心境は、韓国や韓国人を崇拝するような態度も蔑視するような態度もぎこちなく感じられる。僕は韓国に来ることが出来なければ、②の状態でい続けたであろう。もしかすると③の状態にもなったであろう。
 
 しかし、②も③もやはり表面的なことで、韓国に一定期間いなければわからないことが沢山あることを今学期は気づいた。こう書くと、“韓国にいたからって偉そうに”と思われるのは必然である。でもやっぱりいなければわからないことが山ほどあるから、僕はここに来て、文化の差異を理解できたことを今は本当に幸せに感じる。特権って言葉は好きではないけど、やはりこれは韓国で住んだ人の特権であると思う。“いいところもあれば、悪いところもある”なんていう、ありきたりのことなんだけれども。
 
 こう思うようになった原因は友人や言語能力、そして生活環境への適応ということがすべてであろう。でもそういう具体例を全部書くには今酔っ払ってますので書けません。悪しからず。ただ、今は別に論理で誰かを説き伏したいわけではなく、実感を書いているだけなのです。何せ酔っ払ってますからね。
 
 最近は飲み歩いていて、これを書けなかったのです。もし、毎日読んでいる人があればお詫びします。
 
お休みなさい。
15 octubre

格好を気にしてカッコーと葛藤

 最近は非常に感情の起伏の大きい生活を送っている。今日は主観的な事を書きたいと思う。僕の生活に興味のある人なんて大していないことはわかっているけど、書きたいので書きます。
 
 
 
 
 昨日授業を受けている最中、或る人に大声で怒鳴られた。この怒鳴った人は、僕の学校のクラスメートだ。つまり僕と同じように、外国から来て韓国語を勉強している人だ。僕は怒鳴られることをある程度予想していたので、それほど驚かなかった。しかし事情を知らない人にとってはさぞ驚く出来事であっただろう。
 
 怒鳴った彼は、9割がた精神病に冒されていると考えられている。そもそも彼は韓国に来たくなかったのだと言う。しかし母国での高校時代、遊びにかまけて大学に進学できなくなった。彼の国は韓国より技術や経済の水準が低い。そこで彼の父親は、韓国の大学に通わせることで大逆転を図ろうとした。つまりは父親に韓国に送りこまれた。
 
 父親をこれ以上失望させたくなかったのか、彼は韓国に来てからというもの必死に勉強したという。その成果が実り、先学期は成績優秀者の一人に選ばれ表彰された。
 
 しかし、この間にも精神病の種は芽を吹いていたと思われる。先学期、ひょんなことから彼と話をするようになったのだが、出てくるのは生活に対する不満が多かった。彼の国籍ではクレジットカードが使えなかったり、勉強のストレスを解消する場がなかったりなどだ。しかし僕は挨拶代わりに不満を言ったりする人もいると思っていたので、さして気を留めていなかった。
 
 夏休みに僕が日本に帰っている間も、彼は韓国に留まりアルバイトをしていた。夏休み明けに僕らは同じクラスになり、休み時間は話すようになった。彼は日本の戦国時代の歴史が好きらしく、僕に色々なことを話してくれた。僕が“これは知ってる?”などと聞こうものなら、腕でもって僕を制し、彼の知ってる限りのことを話してくれた。今思えば、彼は日本史を通して僕と話すことによって安らぎを得たかっただけなのだろう。
 
 彼には親しい友達がいない。彼の叔父は故国では有名な映画監督であったり、彼の家は良家の部類に入ると思う。彼自身も非常に賢く、歴史の話にしてもそうだが、政治や経済など学術的なものを好む。そのせいか、同年代の友達とはそれほど良い関係を築けていなかったようだ。
 
 そこで彼が交際を図ろうとしたのは、韓国語の教師陣である。30代半ばの男性教師に引越しを手伝ってもらうなどして、良い関係を築いていたらしい。
 
 彼が奇行を見せるようになったのは今月の始め頃からだ。ある日は非常に明朗であったのに、次の日にはまったく笑いもしなくなったり、不安定な心境を垣間見せていた。明らかにおかしいと感じたのは、ある日彼が授業に遅刻し、教室に入った途端彼の母国語で、彼と同じ国から来た人たちに向かって叫ぶように話し始めたことだった。僕はぽかん、として聞いていたが、その内容は“お前ら、授業聞くんじゃねぇぞ”というようなものだったらしい。
 
 その時分、彼は頻繁に韓国語教育院の事務所に行き、教師たちに向かって不満をたらしていたという。その発端は、上に書いた男性教師が“タバコの吸いすぎには気をつけろ”と言ったことらしい。たったそれだけの事から、彼は人間不信に陥ってしまったようだ。彼はそれ以来、事務所に赴いては“失望しました”などと書かれた内容の手紙を残すなどの行動に出た。
 
 そして、今は国へ帰ってしまったが、先学期に彼と話をよくしたという人に尋ねてみると、彼はいわゆるカルト宗教のようなものにも先学期から手を出していたようだ。また、真夜中に神社に参拝するなどのこともしていたらしい。
 
 昨日、彼が僕に対して怒鳴ったのも実にささいな事が原因である。先日、彼の誕生日があり、夕食を一緒に食べた。それで彼はかなり僕にシンパシーを感じたのか、彼の誕生日にも関わらず支払いをしてくれた。そして次の日、僕にプレイステーションのゲームについて聞いてきた。僕は疲れていたのと、ゲームに関してはよくわからなかったので、彼に対して素っ気無い態度をとってしまった。彼はその次の日から、僕に対して心を閉ざしてしまい、何を話してもちょっとした反応を見せるだけになった。
 
 そして昨日の一件が起こる。彼は韓国語で怒鳴っていたが、興奮していて話の内容がさっぱりつかめなかった。後で、彼の国の言葉がわかる教師が仲介に入ったのだが、何でも僕が言った韓国に対する不満と僕の態度が違うという意味不明のものだった。推測するに、僕が彼に不満を漏らすとき、僕が彼同様に韓国を憎んでいるかのように捉えたのだろう。しかし、僕は韓国に不満はあっても韓国のことを彼のように嫌いなわけではない。
 
 彼の精神状態や我々の言語能力、それに雰囲気などといったものから誤解が生まれた。そしてプレイステーションの問答の僕の素っ気ない返事が、彼に裏切りを感じさせ、今回の一件が起きたのだろう。
 
 
 
 勿論、怒鳴られたときは不快に思ったが、不思議なことに僕は彼に対して怒りの感情を覚えない。いい人ぶるわけではないが、彼が変な気を起こして自殺などをしないかが心配なのである。正直な話をすると、彼が僕を殺そうとするのではないか、というのが一番の心配なわけではあるが。
 
 彼はいい人だった。僕は彼を好きだった。過去形で話をするのも不謹慎かもしれないが、現在形で話をするのも違う気がする。彼は礼儀正しく、他人への配慮も出来、笑顔で話しあえる人だった。突然大声で怒鳴るような人では決してなかった。それだけに今回の事件は僕には大きな衝撃となった。そして、プレイステーションについて聞かれたとき、もっと彼の状態を考えて行動すればよかったという考えも浮かぶ。
 
 
 冒頭にも書いたように、僕は今感情の起伏が激しい。そうなると、僕と彼を隔てるものがないのではないかと不安になる。正常/異常の境界はない、というのは使い古されたフレーズであるが、今の心境はまさにそれである。僕や、正常と思ってる人も簡単に彼のようになれるのである。しかし逆に、一旦彼のようになってしまったなら、僕や正常だと思ってる人のようになるのは容易ではないだろう。
 
 昨今、精神病棟は“カッコーの巣の上で”の流行などを経て、監獄という印象を与える。しかし、今の彼の状態を見ると、彼には精神医学の観点も必要なのではないかと思う。“押し込めはいかん”という、新しい倫理観に縛られるのは彼の本望ではないだろう。
 
 
 
 恐らく近いうちに、彼は国へ帰るかここの精神病院に行くかなどの措置がとられるだろう。もう一生僕とは接点のないままの可能性が高い。そう考えると、妙に寂しい気分になった。
13 septiembre

地獄からの叫び声vol.4

 地獄からの叫び声vol.4“ダチ”
 
 最近は、このダチという言葉をめっきり聞かなくなった。恐らくこれは、“特攻の拓”などといった暴走族漫画を皮切りに広がった言葉だろうと推測される。現代では暴走族という存在自体が既に過去の遺物と化してしまった。ヤンキー文化は悉くこういった運命に直面し、地獄から叫び声を上げているように感じる。近年、リーゼントと言えば、暴走族のそれを指さず、昔のアメリカのそれを指しているようだ。ボンタンなどの、ひどく機能性に欠けたファッションなども随分と前に廃れてしまっている。今の小学生に見せると、寝袋か何かと勘違いしてしまうのではないだろうか。
 
 暴走族は既に一つのノスタルジーを掻き立てる記号として存在しているように見える。そういったノスタルジーとユーモアを兼ねて、“ダチ”の類義語である“マブ”とか“マブダチ”とかは頻繁に目にすることがあるが、どうしたわけか、“ダチ”というのは見ない。これは僕が見ないだけで、今でも市井を通行している言葉なのだろうか。僕にはとてもそうは思えない。
 
 こういった文化がどんな形であれ、復権してくるのにはまだまだ時間がかかるだろう。個人的には“友達”という漢字の上にふられていた“ダチ”という読み仮名が好きだったのであるが。
12 septiembre

新装回転

 長らくご無沙汰してます。日本での夏休みを終え、韓国に戻ってきてから一週間ほど経とうとしています。またこれから徐々に書いていこうと思います。
 
 
 
 こないだまでの、緑にも飽きたので色も変えてみた。いかがでしょうか?不評ならば、またまた変えようと思います。このブログは別にアイデンティティを持っているわけではないし、僕はむしろそれを放棄しているからだ。カメレオンのように、色をコロコロ変えようと思う。
 
 
 
 コロコロコロコロの心。回転と風流再開です。時間があれば、是非見てください。
26 julio

キムチから始めよう

 韓国の空港を降りるといきなりキムチの匂いがする、という話が日本ではよくされる。僕自身は全然そんな風に感じなかったけど、人によっては感じるかもしれない。
 
 僕が今までで、キムチの匂いを意識したのは劇場であった。ある日昼食後の劇場に入ると、明らかにキムチ特有のツーンとする匂いが鼻をついた。因みに、韓国人と幸せでない歴史問題について語り、韓国人がやや不機嫌にツーンとなってため息をつくときにも、ツーンとしている。これは憶測に過ぎないが、有名な“テーハンミングッ!”の掛け声もかなりツーンとすることだろう。サポーターが12人目の選手であるというが、納得できるような気がする。
 
 日本ではキムチの匂いを嫌う人が多いだろう。しかし、韓国の人はキムチを臭いとは思わないという。これは凄いことではないか。皮肉ではなく、違う人が嫌いなものを好きになれる能力というのはかけがえのないものである。
 
 韓国人は外国の人がキムチの匂いをあまり好きではないということもわかっているようだ。そのせいか、食堂によっては会計を済ませたあと、ガムやハッカの飴を配るところもある。これは韓国の人が外に対して開き、嫌がることに対して努力をしているように映る。
 
 しかし日本人はどうか。少なくとも僕はキムチの匂いに対し、“臭い”の一言で片付けていたような気がする。これでは韓国の人とわかりあえるはずもないし、日韓友好を達成できるはずもない。大袈裟かも知れないが、ここで僕は今日からキムチの匂いを脱構築することにする。脱構築とは大雑把に言って抑圧されていたものを肯定的に受容するということだ。“キムチは臭い”という大前提を取り払い、キムチの匂いというものを肯定的に感じていきたいのだ。
 
 日韓関係が難しい昨今、このような日韓のミクロな努力が必要なのではないか。この場合で言うと、韓国ならガムやハッカを食べ、日本ならキムチの匂いを肯定的に捉える努力だ。少なくとも、キムチの匂いがいい香りと思うようになって損はないはずだ。“キムチだから”、という理由で排除してしまうのであれば、韓国の人がよくする“日本だからとりあえず、反対しとけ”という理由と何ら変わらなくなってしまうのである。これは憎しみの連鎖しか生まないであろう。
 
 
 ここまで留学してきて、カルチャーショックや政治的な理由で、韓国とはあまりいい関係を築けていない。しかし生活が面白いに越したことはないのだから、そうする努力も必要だ。
 
 僕はキムチから始める。日本には、韓国好きな人も嫌いな人も無関心の人も沢山いると思う。しかし一貫しているのは“キムチは臭い”ということかも知れない。この考えを回転させ、そこに風流を感じれるならば、日韓友好の日が近づくのかもしれない。少なくとも、関係が悪くなることはないだろう。
 
 こんな日韓友好を夢見つつ、そろそろ日本に帰省します。少しキムチの匂いを漂わせる僕を、日本社会がどう受け止めてくれるのかが今から楽しみです。
 
 ということで、明日から更新が滞るかもしれません。次回お目にかかりたく。御機嫌よう。
22 julio

不自由になる理由

 7月6日から“韓国という監獄”というテーマに沿って、韓国の不自由さについて書いてきた。ここまで書いてきたことに対する一つの考察を書いてみたいと思う。これはただの一つの考察であって、何の答えでもないし、これからも韓国の不自由さについては書いていくことになるだろう。
 
 
 何故韓国人はこれほどまでに自らを何か枠の中に閉じ込めてしまうのだろうか。韓国人が抵抗する力を持たないからだろうか。そんなわけはないだろう。
 
 この閉じ込め一般を便宜的にイデオロギーと呼ぶことにする。ではこのイデオロギーはどこに向かっているのだろうか。
 
 
 
 イデオロギーの向かう先は日本でも、アメリカでもないだろう。勿論、日本にもアメリカにもぶつけてはいるが、根本的な原因ではない。では根本的な原因が何であるかと言えば、間違いなく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)である。
 
 
 1950年に勃発した朝鮮戦争では、数多くの韓国人、北朝鮮人が死んだ。言うまでもなく、同民族で殺しあったのだ。そして街は廃墟と化したという。この朝鮮戦争で受けた精神的な傷は今も韓国に深く残っていることだろう。朝鮮戦争以降、常に韓国は北朝鮮を意識しなくてはならなかったはずである。
 
 
 地理的に見ると、韓国は北朝鮮と真隣に位置している。北朝鮮がトンネルを掘って韓国に入り込むことも出来るし、38度線を越えることは容易なのである。日本のように迎撃ミサイルを開発してどうにかなる位置にはないのだ。韓国に息苦しさを感じるのと北からの圧迫は無関係ではないだろう。
 
 韓国には共産党が存在しない。これが韓国が行った第一の閉じ込めではないだろうか。韓国は民主主義を掲げてはいるものの、思想の自由は100パーセント保証されないのはこのような状況があるとも考えられる。韓国人は一つの場所に固まり、逸脱してはいけないのだ。逸脱すると危険思想として扱われるからだ。“危険思想”というのも随分古臭い感じがするが、韓国ではいまだリアリティのある言葉なのだろう。
 
 また、韓国では長らく軍事政権が続いた。韓国人が軍隊のような、圧倒的な言説の前に弱く、差異を認められないのはここに理由があるだろう。軍事政権の背景に金日成がいたことは言うまでもない。
 
 反日感情はナショナリズムの高揚装置としての意味合いが強いと、これまでも何度か書いてきた。北朝鮮に対して韓国は一つにならなくてはならず、そのためには愛国心が必要だった。そのために白羽の矢がたったのが、かつて統治していた日本だということだろう。
 
 
 日本に言論が発達したのは、韓国との関係もあるだろう。朝鮮戦争で北朝鮮が韓国を制圧していたら、日本は日本海を挟んで、共産圏と真向かいに対峙することになる。そうなると、アメリカも黙ってはおらず、日本に正式な軍隊を設立しただろうと思う。憲法も変わって、今より言論に対して厳しい法律になっていたかもしれない。これは飽くまでタラレバの推測であるが。とにかく、日本の安全保障は韓国抜きには語れない。
 
 
 韓国の言論は非常に不自由だということは7月6日から書いてきたつもりだ。これを改善するのには北朝鮮との関係をよくしなくてはならないだろう。今の韓国大統領は、整形するより前にこの問題を解決しなくてはならないはずだ。
 
 冷戦が終わってそろそろ15年。韓国の政治はこの問題を直視しなくてはいけない時期に来ていると思う。韓国がこの問題のために一方的で感情的なプロパガンダを使って愛国心を植え付け、それに他の国々が腹をたてていることも忘れないでほしい。
 
20 julio

アッパーとアパートで

 7月6日分の“韓国という監獄”という投稿を先に読んでいただけると、これから書くことの意図がわかりいいかと思います。
 
 
 
 
 
 近代建築の特徴の一つとして機能主義がしばしば取り上げられる。つまり人間の使用目的に合わせた作りかたである。住みやすい、使いやすいという点を強調するのであまりに原理主義的になると“住めればいい”という考えになってしまう。
 
 “住めればいい”という主張は美という観点を排除するために、近代建築には無機質なものが多いというのも特徴であろう。名前は忘れてしまったが、アメリカの労働者階級が住むために作られた集合住宅はあまりに無機質で監獄のような印象を与えていた。どのアパートメントも同じ形をしており、薄暗くまるで監獄の収監房を思わせたのだ。
 
 
 
 
 
 
 仁川空港から高速バスでソウルに向かったことのある人ならわかると思うが、韓国にはアパートが非常に多い。アパートは大体が15階建てくらいで、それが林立しているのである。韓国のアパートの窓は少し緑がかった色で夜に聳えるアパート群を眺めるとなかなかに見事な光景である。
 
 
 
 韓国にこれほどアパートが多いのは、勿論韓国人がアパートに住みたいと思うからだ。韓国にはアパートのほかに、住宅と呼ばれる日本でいう一軒屋のようなものがある。この一軒屋は二階建てで、一階と二階に違う世帯が住むというのが一般的であるようだ。この住宅は管理を自分でしなくてはいけないために面倒くさいのか、韓国では人気がない。
 
 アパートでは何かが故障すると、管理人に電話をすれば直してくれるのだそうだ。その為に面倒がなく快適なので韓国人はアパートを好む。ある程度の収入があればアパートに住むというのが韓国人の中の常識であり、理想的な姿でもあるように感じる。家族と一緒に住んでいる友人たちも、アパートに住んでいる人たちが本当に多い。住宅に住んでいる友達を数えるには片手で足りる。
 
 
 アパートの外観は日本の公営団地に酷似している。見るからに近代建築といった容貌である。
 
 不気味な音をたてるエレベーターを降りてアパートのドアを開けると、まず右か左に小さな部屋がある。そして日本では玄関を入って廊下を渡ってからリビングルームがあるのが一般的だと思うが、韓国のアパートでは玄関を入るとすぐにリビングルームがある。そしてリビングルームと台所の間には仕切りはない。台所の横に部屋がある。トイレは玄関正面にある。トイレの横に夫婦が寝るベッドルームがある。
 
 この構図と違うアパートを見たことは今までただの一度もない。さらに家具の配置までもが全て同じなのである。代表的なものだけを挙げると、リビングには32型以上のサイズのテレビが置いてある。それに対して、5人くらい収容できる非常に柔らかいソファが置いてあるのだ。夕食を食べた後にアッパー(韓国語でお父さんの意味)と果物を食べながらテレビを見るのが、韓国のステレオタイプな幸福像と言える。
 
 日本では公営住宅の中は家庭により家具の好みも違うだろうし、配置だって勿論ちがうだろう。韓国は“理想の住まい”のような言説があまりに強いためにツリー型とも言える住まい方をしているように思える。
 
 
 先日、アパートより低い建物の屋上に登った。この屋上はアパートの向かいにあり、アパートのほぼ全ての部屋を俯瞰することができた。時間は午後八時頃だ。韓国人はカーテンをあまりしないから中の様子が手にとるようにわかる。中を見ると、大体の家庭はテレビをつけ家族でそれを見ている。皆が同じような住居に住み、資本から与えられたテレビに興じているのだ。
 
 また近代建築の特徴とも言えるだろうが、韓国のアパートは綺麗に区画されておりはみ出たりするところがないのである。はみ出るものを許容しない息の詰まるような作りである。あらゆる方向に伸びていこうとする生命力を感じないのだ。すべてが平均的で、良くも悪くもない。これはアパートという監獄と見ることも出来るであろう。これがリゾーム的な広がりを阻害しているといってもいいのではないだろうか。
 
 
 
 
 様々な言説の中で生きる韓国人と、アパートの中で暮らす韓国人がダブって見えた。
19 julio

差異ワールド

 今日の記事も7月6日分の“韓国という監獄”という投稿を見てから読んでいただけると意図がわかりいいかと思います。
 
 
 
 
 ドゥルーズは人間を欲望する機械であると捉えた。こう書くと、チャップリンのモダンタイムズみたいな絵を思い浮かべる人がいるかも知れないけど、ドゥルーズのは少し違う。
 
 人間の欲望は様々なところと接合されていく。水をこぼした時一定の方向に向かうのではなくして、四方八方に飛び散るように。ドゥルーズはこういった人間の欲望は“分裂病的”であるとした。分裂病というとネガティブなイメージしかわかないかも知れないが、これがリゾームという概念と類似していることは明らかである。欲望が憚られるのは社会の規則などで抑圧されているからだ。
 
 この分裂病的な欲望を一番よく表しているのがインターネットの世界だというのは有名な話である。僕自身インターネットをしているときには欲望の赴くままに色々なウェブサイトを訪れる。それはまるで、自我が水のように流れ出して四方八方に流れているように感じる。
 
 
 従来はメディアが言論を掌握していた。それ故に欲望はいくつかの巨大なテレビや新聞に向かわざるを得なかった。個人が情報を発信できるという点において、インターネットはリゾーム型になり得る新しい形の言論と言えよう。
 
 
 
 韓国は周知の通り、コンピューター先進国である。僕の韓国人の友人の中で、僕よりパソコンの扱いが下手な人はいない。僕のコンピューターの知識は日本の大学生の平均やや上といったところだ。日本にはまだまだウェブメールを使わない人がいるように感じるが、韓国ではそんなことを言ったら原始人くらいに考えられるであろう。
 
 韓国では高校生のうちから情報処理系の授業があるのだそうだ。日本では工業高校あたりでないとそういうことはしないように思う。韓国では高校で基礎をみっちりと学び、大学ではさらに高度なことを教えている。友人に英語のレポートを見せてもらった時、あまりに綺麗で驚いてしまった。マイクロソフトワードの使い方が非常に上手なのだ。さらに、僕は日本の中ではそこそこショートカットキーを使えるほうだったが、韓国人の足元にも及ばない。
 
 
 これだけコンピューターの技術が発達している韓国であるが、インターネットによる言論が発達しているとは言えない。と言うのも、韓国語のウェブサイトのホームページは日本の半分にも満たないらしい。欲望の受け皿が決まっているということだ。そしてそれは権力の匂いを感じさせる。
 
 欲望の受け皿として代表的なのが、サイワールドである。サイワールドとは韓国で一番有名なミニ・ホームページのコンテンツを提供する会社である。写真だけでなく、音楽をも流すことができるのである。さらに、友達の名前を入れて検索することもできる。これが数年前から韓国は大ヒットし、今やこのサイワールドのホームページを持たない若者はいないくらいだ。日本でも最近クルルというサイワールドの日本版ができたようである。
 
 
 しかし、これがインターネットのリゾーム化を推進するものではないことに注意をしなくてはならない。皆が皆同じフォーマットのサイワールドを使うので、横に横にずれていくようなインターネット社会ができていないのである。逆にこれが、インターネット社会の強力な権力になっていると言っても過言ではない。
 
 また、このサイワールドは個人の言論の場としての機能はない。日本ではブログが好評を博し言論の機能を持ちつつあるようだが、韓国のサイワールドは日記を書くものではないのである。もっとも、日記を書く機能はあるにはあるのだが、それを使っている人は見たことがない。
 
 
 
 韓国のインターネットのほかの問題点も挙げておこう。韓国には草野仁がやっているような、超有名ワイドショーのようなものがない。ワイドショーには大人のいじめのような祝祭効果があると思うのだが、韓国ではテレビにその効果がないので、インターネットに向かっている。
 
 4月頃に韓国で親日の本を命がけで書いたテレビの司会者はインターネット上で袋叩きに遭った。公的なメディアなら最低限のモラルがあると思うが、韓国ではそれがインターネット上の無責任な個人に委ねられているため、やり方が徹底的なのである。
 
 このインターネット上のいじめもインターネット社会のリゾーム化の遅れと無関係ではなかろう。
 
 
 
 
 かと言って日本がリゾーム型になっているかというとそんなことは全然ないと思う。MSNのブログを使っている僕が言うのもなんであるが、ブログも結局は与えられたものを使っているわけだ。
 
 また、ブログの影響で日本のインターネット社会にも個人という新しい権力が生まれる危険性があるように感じる。つまり個人も過剰な権力を持ちえるのではないかという危険だ。さらにその個人が韓国のような一元論的立場を持ち始めると危険である。それが進むと、現在の韓国のようなネット社会になるのではないかという不安すら覚える。
 
 
 
 自由度の高い、横にずれても咎めないような新しい言論の場、言わば“差異ワールド”になることを願ってやまない。
18 julio

汎民族の韓民族

 これから書くことは7月6日分の“韓国という監獄”という投稿を見ていただけると意図がわかりいいかも知れません。
 
 
 
 
 韓国は非常に近代的な国家であるとは既に述べた。そして強力な国民国家主義とも言える。もしデリダやフーコーなどをポストモダン世代と呼ぶならば、彼らが否定したのは近代的な国民国家主義ではなかったか。
 
 
 
 うろ覚えで申し訳ないがアレントは国民国家主義の基本的人権について“ドイツならドイツ人の、フランスならフランス人の人権でしかない。そして、その人権とは有事の際に、国家のために死ぬための権利でしかない。”と述べている。(間違ってたら訂正してください。)アレントはつまり、国民国家主義のうちに抱える暴力性を暴いてみせたのである。
 
 こうした国民国家主義というのはどこの国においても克服できていないだろう。しかし、上で敢えて韓国を“強力な”という言葉を冠して書いたかには理由がある。それが、非常にわかりやすい形でいたるところに存在する。それが名前である。以下、韓国の国民国家主義の強さを表す名前の数々を挙げていきたい。
 
 
 まずは政党について。日本では自民党と民主党、アメリカでは共和党と民主党、イギリスでは労働党と保守党。このように各国の二大政党を日本語で表記した場合には、政治的な主張を漢字2字で与えることが多い。しかし韓国の場合は“ウリ党”と“ハンナラ党”である。意味がわからず、たじろぐ人も多いだろうと思う。
 
 ウリ党のウリとは“我々”という意味である。(このことは3月24日分の“瓜の甘い果実と硬い表皮という投稿を参照されたい。)従ってウリ党を日本語に直訳すると“我々の政党”という意味である。我々とは誰のことであろうか?それは勿論韓国人のことである。
 
 次のハンナラ党であるが、“ハン”というのが、“一つの”、もしくは“大きな”という風に訳される。“ナラ”というのが“国”という意味である。従って日本語に直訳すると“一つの(大きな)国”ということになる。これらも韓国人の一元論的思考を物語っていると言えよう。
 
 
 このように政党は主張を名前にするのではなく、民族意識を高揚させるような名前を置くのである。次は銀行をみてみたい。僕が韓国でよく見かける銀行は三つある。
 
 
 一つ目はウリ銀行である。“ウリ”はウリ党のところで述べた通りで、これを日本語に直訳すると“我々の銀行”ということになる。
 
 二つ目は“ハナ銀行”だ。“ハナ”は“一つ”というくらいの意味だ。よってこれを直訳すると“一つの銀行”という意味になる。これもハンナラ党と同様に、韓国の一元論的思考を物語っている。
 
 三つ目は“クンミン銀行”だ。クンミンに漢字を当てると“国民”となる。直訳すると“国民銀行”となる。これに説明の必要はないだろう。国民国家主義をもろに表している名前となる。
 
 日本にはみずほ銀行やUFJ銀行などといった、日本を直接に表したり、一元論的な性質を表したりする名前の銀行はないだけに、韓国の民族主義の強さを思い知る。
 
 
 
 最後は新聞だ。新聞も大きなのは三つある。
 
 一つ目は“トンア日報”。漢字を当てれば東亜日報である。“東亜”と聞くと、大東亜共栄圏を思い起こさせるが、彼らには東アジア=韓国という認識があるのだろう。
 
 二つ目は“チョソン日報”。朝鮮日報のことである。韓国は朝鮮という呼称を嫌うが、この朝鮮とは北朝鮮ではなく、韓国のことを意味しているのである。
 
 三つ目は“チュンアン日報”。日本語風に言えば“中央日報”ということだ。この中央というのは様々な解釈ができる。でも僕には韓国が中央にいるというような印象を与える新聞である。
 
 江戸時代の新聞の名前を付けた読売新聞や、当たり障りのない毎日新聞などがある日本から考えると少し違和感がある。
 
 
 
 
 
 このように韓国は汎民族主義的な匂いを感じさせる。また、韓国には韓国籍の少数民族がいないと言っていい。故に、韓国の社会では韓国人、韓民族が真理となるようなツリー型の構造となり、他民族、とりわけアジア人を排除するような仕組みになっているのだ。
 
 3月24日分の投稿でも書いたが、韓国人は外国人に親切だが、内部に入り込むことはまず出来ないと考えてよい。これは日本も同様なのかもしれないが。
 
 
 
 元々、多様性が無い国ではあるが、民族という視点から見ても、リゾーム型の社会のように他民族を許容する日はまだまだ来ないであろう。
 
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